宮崎駿「ルパン私論」を書く「ルパンはまさしく、時代の子だった」

2020年10月18日

ルパンはまさしく、時代の子だった

アニメージュ 80年10月号より

 キャラクターは"時の子"だと誰かが言ったが本当にそうだと思う。スタッフが意識なくてもキャラクターの性格に物語の展開に時代は敏感に顔を出してくる。良くも悪くもである。 ルパンが生き生きした時代、共感と存在感を持って生きたのは紛れもなく一昔前なのだ。1960年代から70年代へと移っていく頃時代を先取りしようとする野心を持ってるパンは生まれた。
 あの頃60年代も終わりに近くミニカーレースというものがあった。
富士のサーキットへ行くとウィング代わりにエンジンのフードを解放した彩りのスバル360や足を切って這いつくばったカナブンのようなキャロルがけたたましく走り回っていた。ヘアピンカーブでピンクのキャロルがくるくるとスキンする。天井を取り払ったレモン色のボコボコスバルが草むらに突っ込む、土手をよじ登る…。殺気だって上ずって、見境のないドライバー達は、シャカリキになってレースで這い出し再びウォー走りだす。
ー性能が良くて愛想のない本田の軽が出回ってミニカーレースをダメにしてしまうまで、本当に愉快で楽しいレースだった。あの頃、と言ってもたかが10年前ほど前、金がない若い連中でもポンコツぐらいなら持てる時代が始まったのだ。
 50年代までのごちそう、ラーメンは、60年代でタンメンに変わりやがて鳥の唐揚げや醤油焼きに昇格して行く。経済力は伸び続け円がやたらと高くなり、僕らの周りでも海外旅行が増加して行きあらゆる情報が流れ込み始めた。
 社会の最低所得層を自負していた自分たちアニメーターも、いつのまにか車に乗り、車談義に明け暮れるようになった。浮かれていたつもりではなく浮かれていた。
「父ちゃん俺はやるぜ!」とに切り込んで見せて、追いつき追い越せ企業の星となれの時代は過ぎ去り、ルパン3世が登場した。
 流れ込む情報を他人より早く使いこなそうという意図が、時代を先取りした新番組、業界最高の受注額を誇るルパン3世の売り物<実証主義>に現れている。ベンツ SSK とか、高価な腕時計や銘柄のもののガスライターで身を飾り、ワルサー P 38だの、コンバットマグナムだの、それまで、漫画のピストルといえばらしきもので済ませて済ませていた部分に力が入れられたジョニクロよりも高級のウイスキーなんぞのがあるんだぞ、お前知らねえのか…。てなもんだった。
 先取りしようという意欲、はルパンの性格設定にも加えられた。旧ルパンは、たった2クール弱(23本)で座礁したシリーズだが前半の1/3と後半の2/3ではルパンの性格が大きく変化している。
 スタート時のルパンはしらけの世代。おじいちゃんの財宝ごまんと受け継ぎ大豪邸に住み、もはや物や金でアクセクせず(アンニュイと呼ばれていた)を紛らわすために時たま泥棒をやって見せる男として基本設定された。
 60年代の末、反戦歌が広く口ずさまれ日米法案条約の自動延長に反対する若者たちが新宿に広場を作り、大学にバリケードが築かれた高揚した空気は70年代を境に散り散りになり、シラケだシラケだと叫ぶ人々が現れていた。しらけも時代の先端だった。シラケははっきり演出意図に組み込まれたダーと寝転んで会話するルパンと次元の特有のポーズが生み出されている。まなじりを吊り上げ、歯を食いしばるヒーローとは正反対の、しかも豊富な消費生活はちゃっかり享受している HERO 、ルパン3世は確かに時の子供だった。
 けれども僕らはしらけてなんかいなかった。ベトナムで解放戦線がまだ頑張っているのだから、希望がなくなった訳ではなかった。 それにしても僕らの職業はひどかった。テレビ漫画は、おざなり、手抜き、幼稚、出来損ないの借り物の陳列。まるで破れ続ける傷口を作っているようだと仲間内で語り合った。僕らは紛れもなくハングリーだった。スカッとした面白い仕事をやりたい願望と気力はいくらでもあったのだ。
 旧ルパンの路線の変更はスタッフのあずかり知らぬところから共有されたものだったが、演出を入れ替えるはめになった僕ら(高畑勲と私)は何よりまず何よりシラケを腐食したかった。命ぜられたのではない。シラケが時代の先端だとしても、ミニカーレースのあの活力は僕らのものだった。快活で陽気紛れもなく貧乏人のせがれ、ルパン。祖父の財宝など先代が全部使ってしまって何も残っちゃいない。ルパンはくるくる走り回り逃げ回り、カナブンのような銭形が追う。何百万も生産された軍用拳銃ワルサー P 38を持っていきがったりしない。知恵と体術だけであくことなく目的を追うルパン。次元は気のいい朗らかな男になり、五右衛門はアナログな滑稽男になり、不二子は安っぽい色気を売り物にしない。
 その好悪は別にして、ベンツ SSK に乗るルパンと、イタリアの貧乏人の車フィアット500に乗る二人のルパンがあのシリーズの中で対立しせめぎ合い、影響しあって、結果として活力を作品にもたらすことになったあの時代の二つの顔を同時に持つことでルパンはより時代の子供らしくなったのだと思う。
 放送中の路線の変更は、政策を混乱させテレビアニメーションの技法が停滞した時期もあって、画面は乱れ、完成度は低く、技術的には見るとところのない作品だったが、その後妙な人気を得たのはその辺に原因があるのではなかろうか。
「闘い利あらず、多くのスタッフに迷惑をかけ…云々」とは打ち上げパーティーでの東京ムービー社長の敗北宣言ではあったが、僕らはヒーヒー言ったにしろ、やりたい放題をやって、最終回では切れっこない分厚い金庫を五右ェ門にくりぬかせ、銭形を号泣させ、、せいせいしてルパンを終えた。
 その後、ともかく国内は平和だと言われながら時代は変わる。
 石油ショックと公害の中で、ハイジは緑の中を走り、軍備増強論が声高らかに叫ばれる前触れとして、戦時中すでに無用の長物と言われた戦艦が宇宙に返り咲いていた。呆れるほどうまく仕組まれた3億円事件の代わりに、今やありきたりばったりの銀行強盗は花盛り。ハイジャック、テロ、飢餓、戦争が地球のあっちこっちで火を噴き、石油は際限なく値上がりし、何よりも地球そのものに限界があることが明らかになってしまった。
 ルパンの世界より、現実の世界の方がはるかに騒がしくなってしまったのだ。
 今、車に乗っていきがっているのは本物の馬鹿。ラスベガスに憧れるのは、自民党のヤクザ代理士クラス。ライターなんか100円ので十分すぎる。情報過多は留まるところを知らず、書店の本棚に兵器の写真衆がいくらでも転がり、今更ワルサーでもないのだ。撃ちたきゃ、アメリカに行けばいくらでも打てる。膨張する GNP に乗っかって倦怠を楽しみ、罪もなくミニカーレースに夢中になれたルパンの時代は過ぎ去ったのだ。
 ルパンは泥棒である。泥棒の生活は生産に従事し、まっとうに暮らす人々がいて初めて成立する。泥棒は縛り付ける現実の裏をかいて、”シテやって”みせるが、実は一番現実に縛り付けられている訳だ。
 現実の世界に取り残されたルパンに、いったい何ができるのだろう。せいぜい少女の心を盗むくらいしか残されていない…。
 今の時代の子供として、ルパンを再生する方法があったのかもしれない。だがそれも労多くして成果の少ない仕事になったろう。何よりも今の原作のすっかり力を失っている姿でそれは証明済みだ。
 3年間続いた新ルパンは、ある時は高視聴率を上げ商売としては成功したかもしれない。が、時代の子には一度もなれずじまいだった。むしろ、時代とのズレを売り物にするアナクロナンセンスドタバタの中で息切れしてしまっていたのは無惨としか言いようがない。
 モンキーパンチの昔の原作には強いハングリーがあった。山田康雄もハングリー、僕たちもハングリー。
「…もう10年以上昔だ。俺は一人で売り出そうと躍起になっている青二才だった」
(「カリオストロの城」のセリフより)
 あの頃のハングリーなルパン女性でへっぺきでおっちょこちょいに思慮を隠し、ミニカーレースに夢中になれたルパンを、僕は時々懐かしく思い出す。
 しかし、今やらねばならぬことはもっと他のことなのだ。本物のルパンがそれを一番よく分かってくれるだろう…。
さようなら、ルパン …。